武夫は夢中になっていた。先ほど購入した「風の大地」が実に面白いのだ。いつもは寝そべって読む漫画も、今日はベッドに腰を掛けて前のめりで読んでいる。1時間で読み終えてしまった。数冊では読み足らない。それでも1巻~5巻まで連続で買っておいたのは正解だった。もう一度ゆっくり、初めから読み直してみよう。冷めたハンバーガーを手にしたのは昼過ぎの事だった。
次の日も、また次の日も、風の大地を繰り返し読み直した。行きつけの本屋には5巻までしか売っていなかった。どうせまた行っても同じだろう。武夫は漫画喫茶で続きを読んだ。段々とゴルフの魅力に取りつかれていった武夫は決断する。
「誰にも言わずにゴルフを始めてみようかな...。」
周りが騒ぎたつのが嫌だった。始めてもすぐに辞めてしまうかも知れない。だから誰にも気づかれないように始めよう。誰もいないお店でゴルフクラブを買い、誰もいない練習場でボールを打ってみよう。そんな場所は何処にもないのに。
次の日曜日、武夫はゴルフショップにいた。オープン直後に合わせて入店。人気のない店内でキョロキョロと辺りを見渡す。店員とは極力目を合わせないようにした。
「何かお探しですか?」
と言われないようにコソコソ見て回った。
その時、
「おはようございます!」
元気な声が飛んできた。話しかけられたくなかったが見つかってしまったらしょうがない。店員とのやり取りは適当に済ませさっさと店を後にしよう。そう思って振り返ると、そこには小夏がいた。
「あ、はあぁ...。」
今まで聞いた事のないような、実に変な声だ。
小夏 | 「え?ゴルフされるんですか?」 |
武夫 | 「え、えぇ、まぁ。」 |
気になる子の前で見栄を張る、何ともベタな光景だ。
小夏 | 「どれ位で回るんですか?」 |
武夫 | 「そ、そうですね。はい。」 |
小夏はキョトンとした顔をしていた。何故だかは分からなかった。
小夏 | 「でもこんな所で会うなんてホント奇遇ですね!」 |
武夫 | 「ですね。」 |
嬉しさはない。今は会話のままならない自分への不甲斐なさでいっぱいである。
小夏 | 「お名前伺っても良いですか?」 |
武夫 | 「あ、はい。武夫です。」 |
小夏 | 「私は夏美と言います。今度もし良かったらラウンドご一緒しませんか?」 |
夏美...小夏でなくて夏美。当たらずとも遠からず。武夫は少しビックリした。ラウンドの意味は全く分からなかった。
武夫 | 「え、えぇ。全然大丈夫ですよ。」 |
夏美 | 「本当ですか?色々教えて下さいね!ではまたお惣菜屋で。」 |
武夫 | 「分かりました。」 |
武夫はすぐに店を出た。会話が終わり、一度は距離を取ったものの、店内でまた鉢合わせとなった時に、どんな顔をして良いか分からなかったからだ。
家に着いた武夫はパソコンで「ラウンド」の意味を調べた。ラウンジの類義語かと思っていた武夫は絶句した。小夏が、いや夏美がキョトンとした理由も分かった。話の中身も理解せずに、適当に返事をした結果がこれだ。武夫はベッドに仰向けになり目をつぶった。
彼女に嘘をついた事、会話がままならない自分、そして店内を見渡した時の、予想以上に高価なゴルフクラブの品々、その光景、、、全てが武夫を追い詰めていた。
「とにかく彼女に謝って断る事にしよう。」
武夫はそう決めた。ふとパソコンに目をやると、画面にゴルフバックが映っていた。ネットオークションのウェブ広告だった。
武夫は食いついた。中古品ではあるが、先ほど店内で見たゴルフクラブとは違い、お手頃な品が沢山ある。店内で見た同じメーカーのゴルフクラブセット。定価は確か21万円。オークション上では48,000円となっている。武夫はネットオークションで購入する事を決めた。
その時、武夫の脳裏をかすめた光景。先週の日曜日、彼女と遭遇した時、彼女が手にしていたゴルフバック、その時確かに書いてあった、「Callaway」の文字。武夫はすぐさまネットオークションで検索した。一流メーカーではあるが中古品なら手の届く範囲。色々な種類がある。何がどうなのかは分からない。武夫はゴルフクラブについて出来る限りネットで検索し、勉強した。ヘッドの角度やシャフトの硬さ、聞いた事のない「ライ角」なる言葉も理解した。
入札した。落札した。眠れない夜が続いた。
一週間後、自宅に届いたCallawayのゴルフクラブセット。初めてのゴルフ、初めてのクラブ、傷はあるが、何故か未熟な自分と重なり合った。自分に息子が出来た様で何だか嬉しかった。武夫は玄関先で軽く素振りをしてみた。今考えるとスイングなんて滅茶苦茶だ。ただ、その一振り一振りが、とても嬉しく心地よかった。近所のおばさんに見られた。ニコッと笑っていた。少し恥ずかしかったが悪くはなかった。蝉の声がうるさく、夕方の生温かさが武夫の体を包んでいた。
つづく