沈黙がどれ程続いただろうか。武夫にはそれすら分からなかった。
夏美 | 「なんかごめんなさい。私困らせるような事言っちゃったみたいで。武夫さん、食べましょ!」 |
必死で声を振り絞った夏美。その時武夫が重い口を開いた。
武夫 | 「夏美さん…実は…僕、ゴルフを始めたのは2か月ほど前からなんです。」 |
夏美 | 「え?」 |
武夫 | 「ゴルフショップでお会いした時、僕はゴルフ未経験でした。あの時、夏美さんに嘘をついていたんです。」 |
夏美 | 「そうだったんですか…。」 |
武夫は全てを話した。
「嘘」を「本当」にする為、必死で練習した事、夏美とのラウンドを待ちわびていた事、自分のプレーばかりに集中してスコアだけを追いかけていた事、そして、ゴルフを始めて目標が持てた事、表情に変化が表れてきた事、全て正直に話した。言い訳にも聞こえ、告白にも聞こえ、それでも話した。夏美は目にうっすら涙を浮かべ聞いていた。
夏美 | 「良かった。私てっきり嫌われちゃったかなって思って。」 |
武夫は大きく首を振った。
夏美 | 「でも凄いですね!そんな短期間でここまで上手くなるなんて!武夫さん絶対センスありますよ!」 |
武夫は笑みを浮かべた。褒められて嬉しかったからではない。元気な夏美が戻ってきたからだ。
武夫 | 「ホント、余裕もなくいっぱいいっぱいで、すみませんでした。」 |
武夫は照れ臭そうに頭を下げた。夏美は武夫以上に大きく首を振った。
夏美 | 「あ、武夫さん!時間が!早く食べちゃいましょ!」 |
料理は冷めていたが、2人の間には暖かな空気が流れた。武夫も夏美も沢山話をした。お互い口をモグモグさせながら、仕事の話や趣味の話、年齢も、血液型も、まるでちょっとしたお見合いの様だ。武夫はこれだけで幸せだった。これを求めていた。正直、後半のラウンドなんてしなくて良い。ずっとこの時間が続いて欲しいとさえ思った。
後半は西コース。武夫の1打目は大きく左へそれた。武夫は笑いながら夏美の方を見た。
夏美 | 「ドンマイドンマイ!」 |
夏美も笑っていた。夏美は真っ直ぐど真ん中。
夏美 | 「これが続いてくれれば良いんだけどなー。」 |
夏美が武夫を見た。
武夫 | 「ナイスショット!」 |
大きな声でそう言った。2人の間には、前半とは明らかに違う何かが生まれていた。実に良い雰囲気だ。夏美は結局、このホールはボギー。本日初めてのボギーだ。夏美は少しにやけている。そんな夏美の顔を見ながら、武夫はそれ以上ににやけていた。武夫はトリプルボギー。少しは自分のプレーに集中してもらいたい所だ。
西ホールも4番ホールに差し掛かったところだ。パー4の第3打、夏美の打ったボールはグリーンオン。5m程のパーパットが残った。
グリーンに到着するなり、芝についたくぼみを夏美が丁寧に直す。自分のショットによってついたくぼみではない所も直している。武夫は前半からその事に気付いてはいたのだが、知っての通り、前半は自分の事で精一杯。こうしてよくよく見てみると、何とも誠実で素晴らしいゴルファーだ。
自分のプレーでいっぱいいっぱいになってしまう人が多い中で、夏美のこの姿勢は心底頭が下がる。尊敬に値する行為だ。
武夫 | 「夏美さん、本当に偉いですね。尊敬しますよ。」 |
夏美 | 「え?いえ、ついでです。ついで!笑」 |
夏美は恥ずかしそうに謙遜していた。全てのゴルファーが夏美のような姿勢でゴルフと向き合っていれば、ゴルフ場の芝は常に綺麗で、皆が快適なラウンドを楽しめる事だろう。武夫はこのような姿勢に感銘を受け、夏美の事がますます好きになった。そして武夫自身もゴルフ場に対してこのような姿勢を持っていようと強く思った。
後半も残りわずか。2人きりのラウンド終了が刻一刻と迫っている。「もう少し一緒に回っていたいな。」2人の気持ちは同じだった。武夫も夏美も1打1打を大事にスイングし、残りわずかな時間を惜しみながら楽しんだ。
1羽のカラスが2人の事を遠くから眺めていた。何を思っているのだろう。カラスには2人の事が恋人の様に見えているだろうか。笑顔で見つめ合う事も増えた2人。今日1日で2人の距離は一段と縮まった。
最終ホールを迎える前に、武夫はこの2か月間を振り返った。漫画読みあさりの日々、嘘をついた日、高鳴る鼓動を抑え、クラブの到着を待った夜、玄関先での素振り、手のマメ、その全てが今日という日に繋がった。ゴルフを始めて本当に良かった。夏美のおかげだ。本当に有難い。まだ終わっていない。最終ホール、パーで上がろう。
つづく